靖國参拝

やっとこさの公式参拝(まだ咳は止まらないけど)。おみくじは「吉」だった。靖國のおみくじは「大吉(Execellent)」「中吉(Great)」「小吉(Good)」「吉(Average)」「末吉(Fair)」の五種類らしい。吉って意外と序列が低いのね。日本語だとよさげなイメージだけど、英文はストレートだ。内容も仕事・健康・恋愛など全般的に、焦るな、調子付くななどと書かれていて、忍耐が要求される一年を予感されて気分を害された。まぁ、「凶」や「大凶」を高確率で掴ませる鶴ヶ丘八幡宮に比べればよっぽどマシなんだけど。
遊就館も初めて見学。予想したよりも近代史に関して客観的に紹介されていた。日本を美化している部分は多少あるが、列強の侵略に対する自衛→露西亜ソ連)の南下政策に対する対抗→大東亞における資源確保→アメリカとの覇権争いと、地政学的な切り込みが主体で、右翼な愛国者からしてみれば物足りない部分すらあるように感じた(鎌倉時代や戦国時代の概要や伝統武具の展示もあって、フジヤマハラキリを求める知日派外国人の歓心は得るだろうけど、論点はぶれているし)。しかし、考えれば考えるほど戦争は不可避であったように思う。よく、ペリーが武力で開国したことから、日本は列強とのパワーゲームに巻き込まれ、最終的にアメリカと雌雄を決することになったというが、私は必ずしもそうではないと思う。史実によれば、ペリーの前に各国は(捕鯨船の補給や貿易が目的で)話し合いをしにきているのだが、日本が一方的に打ち払っいるのだ。もちろん、外国船の海賊行為や、交易の拡大による宣教師の侵入と植民地化の阻止という危機管理ではあるのだが、話し合いに来た外国船使節からしてみれば、日本は分からず屋の野蛮人でしかなく、武力で言うことを聞かせるしかない。日清、日露の対立も地政学的には必然で、日本は全く頼りない(どころか中露に尻尾を振って牙を剥きかねない)朝鮮を併合せざるを得なかったし、満州で一歩も引けなかったのも必然である。日清、日露、満州のいずれかで妥協したところで、日本は欧米の植民地となる運命だったろう(朝鮮の独立国家維持はどうシミュレートしようが100%あり得ない)。朝鮮半島や台湾に対しては植民地として収奪することはせず、むしろ同胞として内地の予算を大きく割いてまでインフラを整備し近代国家を整備したことは、感謝こそされ非難される覚えは全く無い。彼らを二等国民として手荒に扱った部分はあるとは思うが、それでも白人支配からの脱却や八紘一宇などという理想論は意外に国民の末端まで浸透し実施されつつあったと思う。戦争なんて国益のぶつかり合いにおける解決手段の一現象に過ぎず、そこに正義など存在しないが、それでも日本の戦争観はもっとも大義名分が立っていると思うのだが。そもそも人間社会は、強者が弱者を食い物にする競争社会であり、序列は必ず発生する。そして、集団内での争い→村同士の争い→國*1同士の争い→国家間の争いと、その規模が大きくなっていくことは避けられない。そこでは弱者の発言権など保障されない。現在、日本はアメリカの保護国であるが、大東亞戦争まで外でドンパチやったからこそ、辛うじて本領独立を維持できたということだ。平和なんてものは武力知力に長けたもの同士が既得権を分け合う談合であり、幻想に過ぎない。この原理を踏まえたうえで、戦争自衛隊憲法改正反対だとか、大日本帝國侵略戦争は悪であり「中華とハンナラに謝罪と賠償するニダ」とか言い出す奴は、決定的に駄目。反日反戦平和サヨクどもの理想論に付き合うなら、日韓併合支那事変などよりも、第一次世界大戦の際に日本が独逸の植民地を火事場泥棒的に侵略したことに関して道義的に追求したほうが余程理にかなっている。しかし、第一次世界大戦において、日本が独逸領を占領したことは反日工作員も非難していないし、サヨクも確実に勝てる戦で貰えるものは貰っておくことは当然と肯定的にスルーしている節がある。第一次世界大戦の日本参戦を否定しないのであれば戦争行為を当然認めなければならないし、大東亞戦争末期のソ連参戦も甘受せねばならないだろう。
何が云いたいのかというと、これはげんしょけん冬コミの新刊で「嫌韓流」を推薦したことに関して絡んできた読者に対する私なりの回答だ。「嫌韓流」などというきな臭いものをあえて推薦した時点でこのような事態は当然予想できたのだが、殺人的スケジュールと疲労で力尽き、当日論破できなかったことを本当に悔やんでいる。

*1:欧州や支那の諸侯や、日本の戦国大名